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2019.11.21

花丸文庫「わたしにください」 (樋口美沙緒:作 チッチー・チェーンソー:イラスト)発売!



花丸文庫「わたしにください」

樋口美沙緒:作
チッチー・チェーンソー:イラスト

■あらすじ■

残酷で懸命な高校生たちの、痛い、青春―――。

クラスメイトのほとんどから名前も覚えてもらえない「学級委員長」の崎田路は、
自分とは何もかも正反対で、クラスでもカリスマ的人気の森尾が嫌いだった。
もちろん森尾も、ただ真面目なだけで面白みのない路のことなど歯牙にもかけてはいなかった。
ところがある事件をきっかけに、路は森尾に組み敷かれ、その体をめちゃくちゃにされてしまう。
突然激しい憎しみをぶつけられ、森尾に心底嫌われていることに、思いがけず傷つく路だったが――。
高校生たちの、痛々しい恋と葛藤を描いた衝撃作!

■試し読み


    一


 森尾祐樹が嫌いだ。
「委員長、カメラ係に決まったから。不満ある?」
 あると言ったところで受けつける気などないくせに、森尾祐樹はルーズリーフを一枚よこしながら言った。
 俺は自分の席に座ったまま、分厚い眼鏡越しに森尾を見上げた。広い肩幅に、教室の天井が低く見えるほどの長身。一目でスポーツをやっていると分かる、鍛えられた体。やや長めの前髪の下、垂れがちの、そのわりにきつめの眼が見える。鼻筋が通り整った顔は、いつもあまり愛想がない。
 無言でルーズリーフを受け取ると、紙の上には今度催される球技大会のチーム編成が書かれており、俺の役割は「カメラ」の文字の下に、「委員長」という言葉だけで示されている。
 ──崎田って名前も知らないのかよ。
 今更分かりきったことだけど、俺は内心毒づいた。
 崎田路というのが、俺の名前。
 道を作る人であってほしいとか、未知に対して果敢であってほしいとか、両親が壮大なる意味を込めてつけたこの名前を、俺はここ二年親と教師以外の誰からも呼ばれたことがなかった。
 クラスメイトのほとんどは俺の名前を覚えていないだろうし、この男子校に入学して二年間、押し付けられてきた、「学級委員長」という体のいい便利屋の呼称で、大抵の用は済んでしまうからだった。
「別になんでもいい」
「あっそ。じゃあそれ、浦野に提出しといてな」
 森尾はデカい体を翻し、ヤツを取り巻いているにぎやかな連中のほうへと戻っていった。俺はその背中を眼鏡の奥から、じっと睨むように見ていた。
 世の中は、不公平にできている。
 俺はそんなに善人でもないけど、悪人でもない。むしろ下半身ケダモノのクラスメイトに比べたら、よっぽど清く正しい生活をしている。ヤツらは俺に毎日のように放課後の掃除を押しつけるけど、俺は一人黙々と耐えている。ボールを追いかけても走っても誰にも追いつけないけど、居眠りもしないでノートをとっている。
 でもどんなに我慢して努力したって、恵まれて生まれてきたヤツらの、足元にも及ばないのだ。
 たとえば森尾祐樹は、生まれ持ったものに恵まれただけだ。森尾は小学生のころからバスケットボールをやっていて、人一倍背が高かった。当然運動ができ、外見もよく、そのうえ成績だって悪くなかった。でも森尾自身は、それほど努力してるわけじゃない。少なくとも俺の努力のほんの十分の一程度で、森尾は昔から、俺の十倍のことができた。
 小学校からずっと同じ学校だけど、森尾はたぶんそのことを知らないだろう。気付いていないし、きっと俺のことなんて、初めから覚えていない。
 十一年も同じ校内にいて、森尾は一度だって俺を名前で呼んだことがない。今年同じクラスになって、用のあるときヤツが俺を呼ぶ言葉は、「委員長」。
 まあでも、仕方ないか、と俺は思っている。
 鏡に自分の外見を映してみたら、その理由は分かりすぎるほど分かるからだ。分厚い眼鏡に、ちっぽけな体と細い手足。いかにも貧相で地味な身なり。面白い会話の一つもできないし、勉強くらいしか趣味がない。
 だけどそれは、俺のせいじゃない。
 生まれたときから小さかったことも、骨格が華奢で肉がつかない体質なことも、病弱なうえ、生まれつきの視力が弱く、分厚い眼鏡をしていることも、体が弱いから運動なんてからきしなんてことも、人の十倍努力しないと勉強だって追いつかないほどの頭しか持っていないことも、神様が俺に与えた偶然の産物で、俺のせいじゃない。
 だから俺は、森尾祐樹が嫌いだった。
 生まれ持ってきた幸運に、あぐらをかいて疑問にも思わないようなヤツは、みんな大嫌いだった。
「森尾、委員長なんだって?」
 輪の中に戻った森尾に、取り巻きの一人が訊ねている。森尾は関心なさげに、
「カメラでいいってさ」
 と報告した。
「あーよかった。今度のクラス対抗、一戦目七組だもんな。黒田がいるからさ、本気出していかねぇと勝てねぇよ」
 クラスの片隅で、意地の悪い笑い声が起こる。森尾にいつもべったりくっついている大村が、俺のほうをチラッと見て肩を竦めるのが、視界の端に映った。
 森尾の取り巻きはみんな、頭の悪い下半身バカだ。俺はあいつらがどこどこの誰とヤったとか、あの女とヤラせてとか、そんなことばかり話しているのを知っている。大村が森尾にくっついているのは、森尾がモテてそのおこぼれに預かれるからだし、もっと言うなら虎の威を借る狐、みたいなものだ。大村だけじゃない。取り巻きのやつらはみんな、森尾にくっつくことで自分の価値をあげている。そういうヤツらも、俺は嫌いだ。
 夏休みが明けたばかりの九月、教室の外から照りつける太陽は鋭く白かった。騒いでいる森尾の取り巻きたちの声を無視して、窓の外へ眼を向けると、生い茂る緑がぬるい風に吹かれて枝先を眠たそうに揺らしていた。
 高校二年のクラス対抗球技大会は、うちのような私立進学校にとってほとんど最後のお祭りで、それが明けるとあとは大学受験一色になる。俺からしたら大会で勝とうが負けようがどうだっていいけど、クラスの連中はそうじゃない。勝ったところでなんの得もない試合に命がけだ。だからヤツらからしたら、俺みたいな足手まといはカメラ係になってもらわないと困るのだ。去年も同じことをしたから、今年もそうなるんだろうと思っていた。俺だってあくせく汗かいて、ボールをおっかけたいなんて思いもしないし、興味もない。
 ──くだらない。バカ同士好きにやれよ。
 心の中で毒づき、俺は立ちあがった。総合学習の時間はまだ少し残っていたので、森尾に渡された編成表を担任の浦野に届けにいくことにした。
 その日の授業は忙しい浦野が自習にしてしまったので、チーム編成を決める以外は特にやることもなく、みんな好き勝手に騒いでいた。うるさいヤツらを後目に教室を出て、人気のない廊下を突っ切り、二階分、階段をあがった。
 数学準備室に入ると、浦野はちょうど小テストの採点をしているところだった。
「先生これ、今度のクラス対抗試合の編成です」
 俺がそう言って渡すと、浦野はルーズリーフを受け取り、一瞥をくれて机上の書類ケースに放り投げた。それからそんなことより、といった態度で、
「崎田、こないだの進路調査で、お前城稜大を志望してたな」
 と、突然関係のないことを言い出した。
 春の初めに出した進路調査票のことを、俺はぼんやりと思い出した。城稜大は私立の有名大学で、うちの高校と理事会が繋がっている。そのせいか、うちからの合格者が多いことで知られていた。俺が城稜大を第一志望にしたのは特にこだわりがあるからじゃなく、なんとなく無難なところで書いたにすぎなかったけれど。
「うちから毎年一人無試験で指定推薦枠があるの知ってるだろう? 早いようだがもう選考が始まってるんだ。お前もその候補の一人にしてやったからな」
 浦野は得意げに笑った。
 通常の指定校推薦はずっとあと、来年度に選考が行われるが、城稜だけは特別に二年時でその大体が決まる。それは色々上のほうの都合らしいけれど、俺はよく知らないし興味もなかった。
「お前は成績優秀だからな、有力候補だ。あと一人、七組の黒田悟、知ってるだろ? あいつがバスケでお前と競り合ってる」
 黒田悟は森尾と並んで学内の有名人だ。武骨な体つきの、壁のように大きなヤツで、小学生のころからずっとバスケットをやっているという話だった。俺は噂話には疎いからよく知らないが、全国でもかなり有名なプレイヤーの一人らしくて、高校一年生のときからスタメン入りしていると評判だった。城稜大はバスケットも強いから、黒田が有力候補なのは当然だなと、俺は他人事のように思った。
「でもまあ、黒田は素行がよくない。心配するな、毎年推薦は俺のクラスから出してるからな」
 ──別に心配なんかしてないし、推薦してくれなくていいんだけど。
 そう思ったけれど、自信たっぷりの浦野に水を差すのも気がひけて、俺はただ「はあ」と返事した。
 部屋を出たあとは、なんだかどっと疲れた。俺はどうしてか、浦野が苦手だった。二十代後半の若い教師で、情熱的で、俺にもやたらと構ってくる。若いから話も通じると、生徒からはそこそこ人気があるけれど、頼んでいないのに、指定校推薦に入れてやったと笑う、そういうところが俺には少しうっとうしかった。
 ──俺がクラスで浮いてるから、気を回してんのかなあ。
 だとしたら、ほうっておいてくれていい。
 頭の中でぼんやりと思う。眼鏡の向こうには、昼下がりの低い太陽を受けた窓の桟が、眩しく光っていた。


 男子校の生徒は、放課後の掃除なんかまず真面目にやらない。
 うちの学校は進学校で、勉強さえできていればいいからと見逃されがちだからなおさらだった。なので「学級委員長」の俺が、結局いつも教室を掃除しゴミ出しまでする。クラスの連中はそのことを知って、ますますなにもやろうとしなくなった。
 だったらやらなきゃいい。そう思うけれど、男子校なんて、一日でもゴミを捨てなければひどいことになる。その日も俺は、ガムのこびりついた床を、雑巾片手にごしごしと擦っていた。
 天井の扇風機を止めていたので熱気がこもり、額に浮き出た汗が床に落ちて、濃いしみになる。校庭のほうからは、時折ボールがバットにあたる音がした。野球部の練習をしているだ。
 そのとき教室の扉がガラリと開き、誰かがぬっと顔を出した。しゃがんだまま見上げると、そこに立っていたのは黒田悟だった。長身の黒田は出入り口の天辺に頭をぶつけないよう、やや首を竦めて俺を見下ろしていた。
「森尾いないか?」
 野太い声で訊かれ、俺は視線を床のガムに戻した。
「知らない」
 俺なんかに森尾のことを訊いて分かるわけがない。そういえば森尾も黒田も同じバスケ部で、よく一緒につるんでるんだっけ。
「それってガム? 雑巾なんかで落ちるの?」
 突然視界が薄暗くなったと思ったら、黒田が、大柄な体を折り曲げて俺の向かいにしゃがみ込んでいた。大きなシャツのポケットに、無造作に突っ込まれたタバコが見えて、俺はドキリとした。
 ──こいつ、スポーツやってるのにタバコなんて吸うのかな。
「爪でとったほうが早いんじゃないか?」
 言いながら、黒田は大きな爪でガムの縁をこそぐ。俺は慌てて黒田の手を押し戻した。
「いいよ。アンタ、森尾探してんだろ」
「そうだけど」
 と黒田は言い、大柄な体には似合わない様子で口ごもった。それから俺の爪をじっと見て、「その爪だと、薄いから割れそうだな」と、言った。
 爪まで薄くて悪かったな、と俺はムッとした。すると黒田は首を傾げ、声を落として訊いてくる。
「お前っていつも、一人で掃除してるよな。ちょっと気になっててさ。クラスのヤツらに、無理矢理やらされてないか?」
 黒田の目の中に映ろったものを、俺は見逃さなかった。気がついたら立ちあがり、黒田を見下ろして睨めつけていた。
「関係ないだろ。掃除は俺がしてるんだから、アンタは森尾探しにいけよ」
 黒田悟は困ったように笑い、悪かったと言って立ちあがった。立ちあがりしな、シャツのポケットに入っているタバコが、また視界の端をかすめる。それは封が切られ、何本か吸ったもののようだった。
 黒田の眼の中に見えたものは、子どものころ、近所のおばさんたちが──でなければ、俺の素性を聞いた教師や大人たちが浮かべるのと同じものだった。
 安っぽい同情と、哀れみ。そんなもの、俺はべつにいらないのに。だから反射的にはねつけたけれど、微笑んでいる黒田の顔を見ていると、どうしてか、なんとも言えない後味の悪さに襲われた。
 俺は悪くない。悪くないけれど、言い過ぎたかもしれないと、心のどこかで思う。
「おい、なにしてんだ」
 戸口から再び大きな影が現れ、黒田に呼びかける。森尾だ。雑巾を片手に仁王立ちした俺を、ヤツはちらりと一瞥する。切れ長の黒眼。いつも愛想がなく、無表情なその眼差しとまともに視界がぶつかり、一瞬たじろいだ。
「お前を探してたんだよ」
 黒田が呆れたように言い、俺に背を向けた。森尾の視線はあっさりと俺からはずれる。まるで自分が、空気のように感じる一瞬だ。
「ジャマしてごめんな」
 黒田が言い、同じくらい長身の二人は廊下へ出ていった。取り残された俺の足元には、はがれかけたガムの塊。そして窓の外からは、野球部のかけ声と、ボールがバットにあたる、尖った音が聞こえてくる。
 最悪な気分だった。
 俺は森尾に会っただけで、そんな気持ちになる。
 ――ほんとに俺、森尾が嫌いなんだ……
 今さらのように、そんな気持ちを噛みしめる。
「崎田、まだいたのか」
 すると、今度は担任の浦野が教室に顔を出した。
 俺はぺこりと会釈し、しゃがみこんでガムはがしを再開する。浦野はしばらくして、ふと正面に屈みこんできた。
「黒田が来てたろう」
 そう言うと、浦野は突然ガムをはがしていた俺の手首を掴んだ。汗ばんだ浦野の掌は生ぬるく、俺はぎょっとなって若い担任の顔を見上げた。
「崎田、お前見ただろう、黒田がタバコを吸ってるところ」
 吸ってるところ? そんなところは見ていない。
 俺は内心、うろたえた。浦野はなにを言ってるんだろう、と思う。
「箱を持ってるのは見ました、けど……」
 あまりに驚いて、思わず口走った俺の言葉を遮るように、浦野はぐいと身を寄せてきた。
「持っていたということは、吸ってる。そうだろ?」
 俺は硬直し、浦野の顔を見つめ返した。シャツのポケットから覗いていた黒田のタバコを思い出す。たしかに、吸った痕跡はあったけれど──。
「俺には、よく……」
「お前は吸ってるところを見た。そうだな?」
「……吸ってるところは」
「見たんだ。そうだと言いなさい」
 俺の手首を掴んでくる浦野の指先に力がこもった。浦野は眉根を寄せた。その眼には決して反論を許さない圧力があった。俺は息を呑んだ。
 なぜかそのとき、瞼の裏に、幼いころ見た、恐ろしい光景が浮かんだ。それは家の近所の川で溺れたときの記憶だった。薄鼠色の水が濁流になって、浮かび上がろうとする俺は、何度も何度も重い水圧で押し込められる。急に息苦しさに襲われ、俺は頭がくらくらした。
「見たと言いなさい、崎田」
 再び、浦野が繰り返した。強く、怖い声。黒く短い前髪の下で、浦野の額は汗ばみ、その眼はぎらついていた。
 気がつくと、俺は頷いていた。
 どうして頷いてしまったのか、よく分からなかった。浦野が怖かった? 早く解放されたかった?
 そしてそのことが、なにを招くのか、そのときの俺は考えもしなかった。

 

……続きは花丸文庫にて。